祝由師が見る穢れ

祝由師がエネルギーを整えようとしても整わず、エネルギーを入れようとしても全く入らない人が居ます。

この様な現象が起こる時は、その人が穢れている場合が多いのですが、祝由師にしか分からないこの穢れは、様々な宗教観で言われているものではありません。では、なぜ人は穢れるのか、この穢れとは何なのでしょう。

人が穢れるのは神仏に嫌われたからです。穢れたから嫌われるのではなく嫌われたから穢れるのです。人が穢れる原因は傲慢な心にあり、傲慢な心の持ち主となったから神仏から嫌われ穢れてしまうのです。
穢れのトリガーとなるのは、神仏に対して礼儀を欠いた言動です。

神仏に嫌われ穢れた人は、病気になったり事業に失敗したりということが起こりやすくなります。穢れているのだから運が悪くなったりするのは当たり前なのですが、実はこの穢れ、人を突き放す類ではなく、神仏から傲慢になっている人へのお知らせなのです。

神仏による穢れは普通の禊や祓いではどうにもなりません。
人が作ったものなど神仏相手には何の効力も発揮しないので、最早、僧侶や神職の人がどうこう出来るレベルの話ではないのです。ですから、神仏による穢れが起こった場合には、直ぐに禊や祓いを頼んだりせず、一度立ち止まって自分自身を深く省みなければなりません。当人の深い反省があって、はじめて祝由師も動き、特別な力を使って神仏を宥めます。※

ほとんどの人が真面目に法律や社会のルールを守って生活しており、自分は傲慢じゃないと思っているのではないでしょうか。
しかし、多くの人は歳を重ねるに連れて物事を分かったつもりになり、あたかも悟った者の様に振る舞い、知らず知らずのうちに傲慢になっていくものなのです。

人を見下して言い放つ「ざまあみろ」は、「様を見ろ」と書きます。(相手に向かって)自分の有り様を見ろという意味で使われますが、本当は自分が自分自身の様を見て己の器に気づかなければならないのです。裸の王様にならない様に。

祝由師がお話の中で馬鹿を知りなさいと言うのは、自分を矮小化しろと言っているのではなく、傲慢にならない様にしなさいという意味が込められています。
穢れとは禾編(のぎへん)に歳と書き、禾は実った穂を表します。神仏による穢れは誰のせいでもなく、自分の蒔いた種が歳を重ねて実っただけなのです。

あなたが、この穢れを避ける為に気をつける点は、

如何なる時も謙虚に生きる。という一点のみです。

いつまでも忘れない様にして下さいね。

 

 

投稿者: ヤスダ ヒサオ

パワーデザイナー、祝由師

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